一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-54

2024-12-05 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第一図 尋牛


序
従来不失、何用追尋
由背覚以成疎、在向塵而遂失
家山漸遠、岐路俄差 
得失熾然、是非鋒起

従来失せず、何ぞ追(つい)尋(じん)を用いん
背(はい)覚(かく)に由(よ)って以(もっ)て疎(そ)と成り、向(こう)塵(じん)に在(あ)って遂(つい)に失す
家(か)山(ざん)漸(ようや)く遠く、岐(き)路(ろ)俄(にわか)に差(たが)う
得失熾(し)然(ねん)として、是非(ぜひ)鋒(ほう)起(き)す

頌
茫茫撥草去追尋
水闊山遙路更深
力尽神疲無処覓
但聞楓樹晩蝉吟

茫々(ぼうぼう)として草を撥(はら)い去って追尋す
水闊(ひろ)く山遙(はる)かにして路(みち)更に深し
力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処(ところ)無し
但(た)だ聞く楓(ふう)樹(じゅ)に晩(ばん)蝉(せん)の吟(ぎん)ずることを

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従来失せず、何ぞ追(つい)尋(じん)を用いん


元より失ってはいないのに、なぜ探し求めなくてはならないのか。


主語と目的語はないが、「尋牛」という題からターゲットは牛だとわかる。そして探求者となるのは牧童だ。もし原始仏教とウパニシャッドの関係を知らなければ、”人が仏性や本来の面目を探しに行くのだ”と従来の仏教観だけで解釈しがちだが、それでは図が進むにつれて徐々に辻褄が合わなくなってゆく。そこで、釈迦の時代の教義を参考にしながら、読み解いてゆきたい。


ところで、”仏性にしても真我にしても、生まれながらに備わっているものだから、元より失いようがない。だから追い求める必要などないのだ”と言われればその通りだが、ならば今更「従来失せず」などと言われる筋合いもないだろう。しかし、現実にはそうとばかりは言えない。なぜなら、確かに”一時的に失っているもの”があるからだ。
 


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