一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-69

2024-12-20 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第二図 見跡

序
依経解義、閲教知蹤
明衆器爲一金、体万物為自己
正邪不辨、真偽奚分
未入斯門、権為見跡

経に依(よ)って義を解(げ)し、教を閲(けみ)して蹤(あと)を知る
衆器の一金為(た)ることを明らめ、万物を体(たい)して自己と為(な)す
正邪辯(べん)ぜずんば、真偽奚(なん)ぞ分かたん
未だ斯(こ)の門に入らざれば、権(かり)に見(けん)跡(せき)と為す

頌
水辺林下跡偏多
芳草離披見也麼
縱是深山更深処
遼天鼻孔怎蔵他

水辺林下 跡偏(ひと)えに多し
芳(ほう)草(そう)離披(りひ)たり 見るや也(ま)たいなや
縦(たと)い是れ深山の更に深き処なるも
遼天(りょうてん)の鼻(び)孔(くう)怎(なん)ぞ他(かれ)を蔵(かく)さん
 

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覚つまり気付きは確かに大事な要素ではあるが、それだけでは充分じゃない。何に対して不充分かといえば、再現性だ。禅を組んでいてたまたまいい状態になったとしよう。そこでいろいろな気づきも得られたが、それで喜んでいたらそれ以上の進歩はない。興奮冷めやらぬ内に、”なぜ上手くいったのか”と自問すべきだ。そうでないと、その境地を安定的に再現することができない。つまり、”経験的事実について論理的に理解すること”が再現性を確立する上で不可欠なのだ。だからこそ、第二図が「見跡」なのだろう。この見跡は、悟のためにあるといってもいい。坐禅に限らず修行とは常に、覚と悟の絶え間ないキャッチボールによって進んでゆくものなのだ。これが「二入」の重要さを裏付ける理由だ。


いずれにせよ、仏教本来の解釈では、「宗教」という言葉に信仰の重視などの意味は含まれていない。だから”信仰を捨てなければ彼岸に到れない”という釈迦の主張とも矛盾しない。要は、信仰で誤魔化すことなく、理論と実践を両輪として地道に覚と悟を積み上げてゆくことが求められているわけだ。
 


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