2025-01-09 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛
序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物
声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず
頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成
黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
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神という字は、示と申の組み合わせだが、申は象形文字で、金文(きんぶん)では雷のいなびかりの形を表し、篆文(てんぶん)では背骨と肋骨の象形を意味している。ヨーガの理論から言うと、背骨にあたる”申の中心線”はスシュムナー管(中心気道)に相当する。ヨーガでも古神道でもサマディや神人合一の境(受動態の場合)に入る時には、その部分にあたかも電気を帯びたかのような「光」が流れ込む。まさに神という文字の本来の意味そのものだ。
そして祗管打坐の「祗」にも神聖な意味がある。単独で使う場合には「くにつかみ、地の神、地祇、すべての神、神祇、やすらか、心が落ち着く、大きい、ただ、まさに」等となり、「只」とはかなり異なる。従って私には、道元が故意に”只”ではなく”祗”を選択したように思えてならない。只という文字ですむ程度の「坐」ならば、正法眼蔵・辯道話の冒頭にある「すなはち自受用三昧、その標準なり。」、「この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。」等にも相応しくないだろう。