一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-88

2025-01-08 著者:小山一夫

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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛


序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物

声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず

頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成

黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
 

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祗管と只管


道元が正法眼蔵で祗(し)管(かん)打(た)坐(ざ)の重要性を説いてから、祗(只)管打坐は坐禅の代名詞のように使われている。だが、昔から巷間の書物で、「祗管打坐」も「只管打坐」も同じ意味だとされているのが、私には不思議でならなかった。


よく只管打坐という表記を見かけるが、道元自身は、私の知る限り、只管ではなく祗管を使っている。「祗管に参禅辯道すべし」普勧坐禅儀、「不離叢林昼夜祗管跏趺座して」正法眼蔵・三昧王三昧、「祗管座始得」正法眼蔵・行持、「祗管に打坐するのみなり」宝慶記、「天童祗管打坐」永平広録、などを見ても軒並み「祗管」だ。また正法眼蔵随聞記でも、「古人の行履に隨て祗管打坐すべきなり」とある。では、只管と祗管は何が違うのだろう?


漢和辞典によると、「只」は「のみ、ばかり、ただ、これだけ」という意味の指事文字で、只管は「只そのことばかりに心を用いること、ひたすら、ひとすじに」とある。だが「祗」は全然意味が違う。示の「丁」は几(つくえ)をかたどる象形文字。「示」は、その几の上に神への生贄(いけにえ)をのせ、そこから血が滴(したた)り落ちている様を表した会意文字だ。だから神事や祭事に繋がる神聖な意味合いが強い。つまり「示」は、そこが「神々との交流の場」であることを示唆しているのだ。
 


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