2025-01-16 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛
序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物
声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず
頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成
黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
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身の脱落を実現するには
釈迦は「三明ヴァッチャ経」に於いて、ある遍歴行者が「ブッダはすべてを知るもの(一切智者)であり、常時に普段にものごとを智見するのか」と尋ねたのに対し、自ら「わたしはすべてを知るものでもなく、常時に不断に智見するものでもない」と言っている。
確かに24時間365日ずっと禅定又は身心脱落を続けることは不可能だ。まして禅定に入る時には、その都度目的が明確でなければならない。何故ならどの三昧(サマディ)に入るかは、鑑機三昧との兼ね合い等もあって、大変重要な意味を持つからだ。さらに原則論も忘れてはならない。あくまでも禅定のための身心脱落であって、身心脱落のための禅定ではないということだ。では禅定のための身心脱落はどうすれば実現できるのだろうか?ここでは、そこに到る道筋と方法について具体的に詳解しよう。