2025-02-17 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛
序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物
声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず
頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成
黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
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制心止とは、「心の起こるところに随いて、これを静止し、馳(ち)散せしめざるなり」とある。これは心の動きをその始動時に制御して鎮め、五根(眼、耳、鼻、舌、身)を、心を主として意のままにすることである。つまり繋縁守境止である程度心が収まってきたら、今度は想念の起こる原因を追究して、それに対処してゆく。これについては原始仏典にもかなり詳しく説明されている。
以上の二法は、言わば身心を安定させる技法だが、次の体真止は、少し趣が異なる。
体真止は、言いかえれば真実又は真理を体得する「止」だ。前の二法を踏まえた上で、さらに残る想念について「悉く因縁より生じて、自性あること無しと知る」ことにより、妄念の心が自然に止むのを期待するものだ。技術的には、「則ち空にして主あることなし」ということで、「空」を持ち出して解決しようとしている。
この天台小止観は、さらに縁と境に対する止観を説く。