一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-145

2025-03-06 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛


序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物

声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず

頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成

黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
 

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①意と識の分離


古神道では、身心脱落を「感覚を蕩尽(とうじん)し、意念を断滅すべし」と教えている。ヨーガ、仏教、古神道で、言い方は異なれどもほとんど同じことを要求しているのは興味深いことだ。真理に到る道は、そう幾つもないということなのだろう。

 

内的な心の作用は、厳密には脳が活動を停止しない限り、つまり脳死にでもならない限り無くならない。それなのに古のグルや老師達は、「心の作用の止滅」を要求している。彼らは、誰にもできないことを求めているのだろうか?いや、そうじゃない。何か手立てがあるはずだ。そう思って、徹底的に「見跡」を積んでみたが、それだけではわからなかった。結局は、先生方の傍らに坐ることでその方法を覚ることができたわけだが、改めて以心伝心の師資(しし)相承(そうしょう)が如何に重要かを知った。


第1章で「もぐら叩き」について書いたが、もぐらと戦わないためには、叩かずにただ見ているだけか、スイッチを切ればいい。これは言い換えると観照に徹するということだ。識のフィールド上を通過してゆく意(心の作用)をキャッチアップしなければ、それに囚われることはない。

 

認識という言葉がある。これは識の上に何かを認めるという意味だ。もし”認める”という行為を無くせば、意はただ通り過ぎてゆくだけだ。そこで問題は、”如何に認識の働きを解き放つか?”という点だ。正直なところ、これを独力で掴むのは、かなり難易度が高いと言わざるをえない。原則的には、身の脱落に合わせて、その雰囲気に”浸りきる”しか方法がないからだ。身の脱落が深まれば深まるほど同化も進み、心の作用も減少してゆく。
 


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