一般財団法人 野萩青少年育成財団
記事一覧に戻る

禅の十牛図 考-135

2025-02-24 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
***********************************************

 

第3章 第三 見牛


序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物

声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず

頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成

黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
 

****************************

 

②判然とした意識と観照


周囲の空間との融合、そしてその”余韻に浸る”過程で、部分的に肉体感覚の消失が起こる場合がある。例えば、腕だけが消えたとか、脚の感覚がなくなったとか、消失の起こり方は人それぞれだが、それをはじめて味わった時は私もかなり驚いた。腕を動かそうと思っても腕がなく、びっくりして眼を開けて腕があるのを見て安心したくらいだ。かなりリアルな体験だった。


だが、五感を対象と結び付けないというだけでは、このような消失には直結しない。ここでは、どれだけ深く”余韻に浸る”ことが出来るかが問われているのだ。


だが、参禅または師の傍らに坐って瞑想している時に、師が身心脱落して三昧に入った場合、その雰囲気に同一化(ウパース)することで弟子にも同じ様に肉体感覚の消失が起こる場合がある。
 


元記事