一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-143

2025-03-04 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛


序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物

声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず

頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成

黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
 

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ところで、ラーマナは、ディヤーナとサマディの違いについて実に明瞭な言葉で説明している。「ディヤーナは、意図的な精神的努力によって達成される。サマディにおいてはそのような努力はない。」(「あるがままに」)


努力は「意」の働きの表れだ。だから無想三昧や無種子三昧の境涯では、当然努力など介在する余地はない。

 

「外的サマディとは世界を目撃している間も、内面ではそれに反応することなく実在をとらえていることだ。そこには波のない海の静寂がある。内的サマディは身体意識を失った状態である。」(同書)


これは実に的を得た表現だと思う。師の文学的な才能の素晴らしさと、至った境地の確かさがよく表れている。「反応することなく実在を捉えている(=観照)」、「身体意識を失った状態(=身の脱落)」というのが、ここでの大事なポイントだ。意の動きが止まった状態で、観がそのあるべき姿となり、空と虚を体現する。それこそがまさに”ヨーガのサマディ”なのだ。
 


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