2025-03-02 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛
序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物
声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず
頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成
黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
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博士はその解説で、「この二種の分類は決して同じではない」とも断じているが、それでは「決して同じではない」というその違いについてここで検討してみよう。
私は、その答えは、「~などの意識を伴っているものは有想とよばれる」という一文に顕れているように思う。つまり「想」というのがポイントなのだが、ヒントは他にも幾つかある。たとえば「色に染まる」「外見上」等々が手掛かりになることだろう。
最初の分類に於ける有想三昧では、段階ごとに想が一つずつ減ってゆく。つまり無想三昧に至る前では、心の作用は消えていないわけだ。想とは心の働き(作用)そのものだ。だからヨーガの定義からすれば、止滅させるべき対象になる。ここでは止観の「止」が主役となる。
一方、「定」は「透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように」ということだから、まさしく止観の「観」に通じる。またこの定義によれば、定とはその前提として「心の作用がすべて消え去った」状態であることが必須であり、故に段階的に想が消えてゆく有想三昧とは異なる世界だといえる。
この「想があるかないか」という点は、三昧を理解する上でとても大事なポイントになる。なぜなら、ヨーガそれ自体の定義「ヨーガとは心の作用を止滅することである」に直結するものだからだ。しかしながら、この「想」についての扱い方だけを分類の条件とするのは、やや早計だと思うので、別の角度からも考察してみたい。