2025-03-01 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛
序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物
声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず
頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成
黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
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ところで、なぜ編者であるパタンジャリーは、三昧に二通りの分類を用意したのだろうか。もし両者が同じものを意味するのであれば、区別する必要はないはずだ。だから私はその意味と目的を考えるべきだと思う。これについては、三昧と定の定義を比較検討すれば、ある程度推測することができるだろう。
「その静慮が、外見上、その思念する客体ばかりになり、自体をなくしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である」
「かくして心の作用がすべて消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように、心は認識主体(真我)、認識器具(心理器官)、認識対象のうちのどれかの上にとどまって、それに染まる。これが定とよばれるものである。」(以上「ヨーガ根本経典」)
佐保田博士は、「定(サマーパティ)は三昧というのと内容に於いてはちがわない。(中略)定義の仕方は多少ちがっているが、主旨は変わらない。」と述べているが、ならば何故ヨーガスートラで、わざわざ別の基準に基づく分類を掲げて個別に説明をしなければならないのだろうか。
もちろん定は、三昧の中に位置づけられているわけだから「定義の仕方は多少違っているが、趣旨は変わらない。」というのも頷けるが、それでは迷路に嵌ってしまうようでわざわざ分類した意味が明確ではないように思う。