一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-149

2025-03-10 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛


序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物

声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず

頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成

黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
 

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③場について


師の役割のひとつは、弟子達のために参禅の「場」を用意することだ。もちろんそれは坐禅堂とか建物のスペースを意味するものではない。どこであっても師が禅定(サマディ)に入れば、そこが「場」となるのだ。しかし、もしも他に求めるとしたらどうなるか?ここではそれについて考えたい。


磐座(いわくら)とは、古神道で「神の宿るところ」を指す。たとえば大和の三輪山など山頂に巨岩がたくさん見られるが、ここも昔から代表的な磐座として知られるところだ。麓の大神神社は、三輪山を御神体として古代から本殿をもたず、今でも拝殿から三輪山を仰ぎ見るようになっている。このような磐座は全国各地に点在している。また各地の神社にある御神木等の樹木や禁足地の森なども、厳密には磐座とは言わないが同じように考えていいだろう。


このような霊的な場で坐禅や瞑想をすれば、師の傍らに坐るのと同じだろうか?

 

これについては肯定も否定もある。肯定はさて置き、その否定理由だが、問題は採(さい)気だ。偏差になる原因のひとつにも数えられているが、採気とは文字通り外部の気を採取することだ。”気”には良いものと悪いものがある。だからそれを判別する能力がないうちに外部の気を採取するのは賢明ではない。たとえ磐座であっても、霊的な場は様々な気に満ちており、必ずしも神気だけとは限らないからだ。参拝して祈願するのはいいだろう。だが採気は如何なる場合でも控えた方がいい。
 


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