一般財団法人 野萩青少年育成財団
記事一覧に戻る

禅の十牛図 考-161

2025-03-22 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
***********************************************

 

第3章 第三 見牛


序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物

声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず

頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成

黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
 

****************************

 

インド学の権威として知られる佐保田博士は、ヨーガの実践者でもあった。その彼が著書「ウパニシャッドからヨーガへ」で次のように告白している。「神秘思想の意識にあっては、沈思、瞑想の深まるにつれて、己の身体の中府に還りゆくかのように感じられるものである。」


この博士の記述は、まさに核心を突いている。

いくら真我(仏性)を観ようと思っても、離遊していて不安定なのでは、はっきりと観えるわけがない。だから身心脱落がある程度できたとしても、真我(仏性)がはっきりと現前するとは限らないのだ。博士の場合、特に身体の中府へ安定させようと意図していたようには思えない。結果としてそうなったという話のようだ。だがそれは博士の瞑想が正しいものであったことを証明している。ではもう一度原文を見てみよう。


「離遊の運魂を招きて、身體の中府に鎭む」
 


元記事