2025-04-05 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第四 得牛
序
久埋郊外、今日逢渠
由境勝以難追、恋芳叢而不已
頑心尚勇、野生猶存
欲得純和、必加鞭撻
久しく郊外に埋もれて今日渠(かれ)に逢う
境(きょう)、勝(すぐ)るに由(よ)って以て追い難し、芳(ほう)叢(そう)を恋(した)うて而も已(や)まず
頑(がん)心(しん)尚(なお)お勇み、野生猶(なお)存す
純(じゅん)和(な)を得んと欲せば必ず鞭(べん)撻(たつ)を加えよ
頌
竭尽精神獲得渠
心強力壮卒難除
有時纔到高原上
又入烟雲深処居
精神を竭(けつ)尽(じん)して渠を獲得す
心強く力壮(さか)んにして卒(にわか)に除き難し
有る時は纔(わず)かに高原の上(ほとり)に到り
又煙雲深き処に入って居(きょ)す
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古代インドのアタルヴァ・ヴェーダには、「スカンバ讃歌」が収録されているが、このスカンバは宇宙の最高原理としての「支柱」を意味する。神の本質が支柱だというのは、我が国の古代思想にも通ずる考え方だ。たとえば日本では神を数える時に「柱」という単位を使っているが、他にも共通点が見られる。
ここでの「柱」は、まさしく神聖な意味合いを持つものだ。チベットの「マハムドラーの詩」が説く「中空の竹」(節を抜いた竹)や、道元の露柱などにも通ずるものだと想っていい。
そこで祗管打坐だが、佛教語大辞典によれば、祗は「恐れ慎んで行なう」、管は「節の貫通した竹」とある。だとすれば祗管打坐とは、「恐れ慎んで中空の竹となるべく坐ること」を意味すると言ってもいいはずだ。
そしてこの管(中空の竹)は、禅定(サマディ)の神気が流れ込んだ時、初めて神聖な支柱(露柱)と化す。まさにその時、祗管打坐は、至高なる身心脱落の姿であり、かつ「さとり」そのものとなるのだ。これならば、正法眼蔵・辯道話の「自受用三昧、その標準なり」、「この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり」を文字通り実証していると言えよう。
師の傍らに坐り(参禅)、身心脱落によって自らを「祗管」(中空の竹)と化し、そして禅定(サマディ)の神気(エネルギー)を受け入れることで、同一化(ウパース)(自受用三昧)が完成するのだ。