2025-05-11 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第六図 騎牛帰家
序
干戈已罷、得失還空
唱樵子之村歌、吹児童之野曲
身横牛上、目視雲霄
呼喚不回、撈籠不住
干(かん)戈(か)已(すで)に罷(や)み、得失(とくしつ)還(ま)た空(くう)ず
樵(しょう)子(し)の村歌を唱(とな)え、児童の野曲を吹く
身を牛上に横たえ、目に雲(うん)霄(しょう)をみる
呼(こ)喚(かん)すれども回(かえ)らず、撈(ろう)籠(ろう)すれども住(とど)まらず
頌
騎牛迤邐欲還家
羗笛声声送晩霞
一拍一歌無限意
知音何必鼓唇牙
牛に騎(の)って迤邐(いり)として家に還(かえ)らんと欲す
羗(きょう)笛(てき)声声晩(ばん)霞(か)を送る
一拍一歌限り無き意
知(ち)音(いん)は何(なん)ぞ必しも唇(しん)牙(げ)を鼓(こ)せん
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自己をはこびて万法を修証する
さて「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すゝみて自己を修証するはさとりなり。」だが、これは主に正門(正法眼蔵・辯道話)である参禅を前提とした話だ。だから「自己をはこびて」で上手くゆかないのは至極尤もなこと。だが傍らに坐られる側の師は、「場」を作るためにも、また鑑機三昧で弟子の状態を調べるためにも、「自己をはこびて」禅定に入らなければならない。だから目的別に、幾つかのパターンがあるということだ。
本書は指導者マニュアルでないので具体的には触れないが、指導に際しては先ず鑑機三昧に入り、弟子の真我(仏性)の状態を観なければならない。そして臨機応変に必要な禅定を選んでその雰囲気をまとうわけだ。もし坐禅堂のように広いところで複数の弟子達と共に坐る場合は、最大公約数的なことしかできないだろうが、本来は禅でもヨーガでも古神道でも、マンツーマンの指導が基本になる。
真実を言えば、離脱には、真言(マントラ)も経文も何も必要ない。師は先ず目的とする禅定の境地(雰囲気)を特定し、目的地(ターゲット)をロックする。そして出路に一如を行ずるべく超関脱落をすれば、あとは吸い込まれるように禅定(サマディ)に入れる。だから、たとえ「自己をはこびて」という能動的アプローチであっても、禅定に入る瞬間は結果的に、ある部分「万法すゝみて自己を修証する」ことになる。大体、2~3分もあれば大丈夫だろう。