一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-205

2025-05-05 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章    第六図 騎牛帰家


序
干戈已罷、得失還空
唱樵子之村歌、吹児童之野曲
身横牛上、目視雲霄
呼喚不回、撈籠不住

干(かん)戈(か)已(すで)に罷(や)み、得失(とくしつ)還(ま)た空(くう)ず
樵(しょう)子(し)の村歌を唱(とな)え、児童の野曲を吹く
身を牛上に横たえ、目に雲(うん)霄(しょう)をみる
呼(こ)喚(かん)すれども回(かえ)らず、撈(ろう)籠(ろう)すれども住(とど)まらず

頌
騎牛迤邐欲還家
羗笛声声送晩霞
一拍一歌無限意
知音何必鼓唇牙

牛に騎(の)って迤邐(いり)として家に還(かえ)らんと欲す
羗(きょう)笛(てき)声声晩(ばん)霞(か)を送る
一拍一歌限り無き意
知(ち)音(いん)は何(なん)ぞ必しも唇(しん)牙(げ)を鼓(こ)せん
 

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万法すすみて自己を修証するはさとりなり


「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すゝみて自己を修証するはさとりなり。」


これは正法眼蔵・現成公案からだが、師の傍らに坐る参禅の時であれば、「自受用三昧」なのだからその通りだと思う。師から放たれる雰囲気(神気)が自らの中空の竹に注(そそ)がれる時に「自己をはこびて」では、全てを台無しにしてしまう。なぜならこの時は、何度も書いているように、無為の内に中空の竹となって師の傍らに坐り、師のまとう禅定の神気に同一化(ウパース)することが求められるからだ。


だが、そうであるなら先程の「出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にかゝはらむや。」との整合性がとれないと思う方もいるだろう。確かに一理ある考え方だが、実際どうなのかというと、初心者は別にしてある程度同一化に慣れてきたら、弟子は師の傍らに坐った時に、先ず自分から積極的に超関脱落を行なって節目を貫通し、「出路に一如を行ずる」よう心掛けるものなのだ。そして、その後は自受用三昧に向けて無為と化してゆく。これは受動的合一への準備であり、同一化をより深めるために露柱を自らつくろうとする作業でもある。
 


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