2025-05-04 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第六図 騎牛帰家
序
干戈已罷、得失還空
唱樵子之村歌、吹児童之野曲
身横牛上、目視雲霄
呼喚不回、撈籠不住
干(かん)戈(か)已(すで)に罷(や)み、得失(とくしつ)還(ま)た空(くう)ず
樵(しょう)子(し)の村歌を唱(とな)え、児童の野曲を吹く
身を牛上に横たえ、目に雲(うん)霄(しょう)をみる
呼(こ)喚(かん)すれども回(かえ)らず、撈(ろう)籠(ろう)すれども住(とど)まらず
頌
騎牛迤邐欲還家
羗笛声声送晩霞
一拍一歌無限意
知音何必鼓唇牙
牛に騎(の)って迤邐(いり)として家に還(かえ)らんと欲す
羗(きょう)笛(てき)声声晩(ばん)霞(か)を送る
一拍一歌限り無き意
知(ち)音(いん)は何(なん)ぞ必しも唇(しん)牙(げ)を鼓(こ)せん
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「牧牛」では、アートマンがようやくプルシャを制御できるようになった。
この「騎牛帰家」の段では、肉体から真我(プルシャ)(仏性)を離脱させ、神我(宇宙の最高原理)に到り、合一する。この離脱は、”路(みち)”ができると吸い込まれるように起こるものだ。道元も正法眼蔵・辯道話で「いまをしふる功夫辨道は、証上に萬法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節(せち)目(もく)にかゝはらむや。」と言うが、ここにはかなり深い境地が説かれている。
「出路に一如を行ずる」とは、真我と神我を繋ぐ路を通してその両者がひとつに結ばれることを意味する。この時その出路の関(塞いでいるもの)を脱落させ超えてゆくわけだが、それによって「節目」がなくなると道元は言う。これはまさしくチベット密教の説く「中空の竹」そのものであり、また露柱の完成を意味している。
そもそも一如とは、「複数の存在の本質が同一であること。」(「禅の思想辞典」)であり、「一如を行ずる」とは、一体化(合一)や融合を意味している。神我(ブラフマン)と真我(アートマン)が、質的に同一であることはいうまでもないが、ただ同じだというだけでは一体化や融合は起こらない。ではどうやって一如を行ずるのか?それについて考えてみよう。