2025-05-17 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第六図 騎牛帰家
序
干戈已罷、得失還空
唱樵子之村歌、吹児童之野曲
身横牛上、目視雲霄
呼喚不回、撈籠不住
干(かん)戈(か)已(すで)に罷(や)み、得失(とくしつ)還(ま)た空(くう)ず
樵(しょう)子(し)の村歌を唱(とな)え、児童の野曲を吹く
身を牛上に横たえ、目に雲(うん)霄(しょう)をみる
呼(こ)喚(かん)すれども回(かえ)らず、撈(ろう)籠(ろう)すれども住(とど)まらず
頌
騎牛迤邐欲還家
羗笛声声送晩霞
一拍一歌無限意
知音何必鼓唇牙
牛に騎(の)って迤邐(いり)として家に還(かえ)らんと欲す
羗(きょう)笛(てき)声声晩(ばん)霞(か)を送る
一拍一歌限り無き意
知(ち)音(いん)は何(なん)ぞ必しも唇(しん)牙(げ)を鼓(こ)せん
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帰と還
ところで、騎牛帰家の「帰(歸)」だが、「還」とどう違うのかを考えたい。
先ず還だが、これは「本源にもどって無に帰すること」という意味だ(「佛教語大辞典」)。他方、帰は「初めにいた所またはもといた場所にもどる、帰着させること」を意味する。
つまり帰家とは「元いたところ(場所)に戻る」だけのことで、ウパニシャッド的には「合一」でしかない。対して還家は「本源にもどって無(状態)に帰する」、即ち「融合」の意味になる。従ってこの騎牛帰家では、離脱によって神我に入るところまでできればいいということになる。
「一拍一歌限り無き意。知音は何ぞ必しも唇(しん)牙(げ)を鼓(こ)せん」だが、かつてここを読んだとき、「無声に聴き、無形に観る」という国学の師の言葉を思い出した。離脱後に聴こえる「一拍一歌」は、無限に響き渡る。だがそれを耳で聞くわけではない。彼方の音無き音を、まさに真我で受け止めるのだ。それは沈黙の内に伝える”応え”と同じ次元の「音」だといえよう。