一般財団法人 野萩青少年育成財団
記事一覧に戻る

禅の十牛図 考-229

2025-05-29 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
***********************************************

 

第3章 第七図 忘牛存人
序
法無二法、牛且為宗
喩蹄兎之異名、顯筌魚之差別
如金出鉱、似月離雲
一道寒光、威音劫外

法に二法無し、牛を且(しば)らく宗と為す
蹄(てい)兎(と)之異名に喩(たと)え、筌魚(せんぎょ)之差別を顕わす
金の鉱を出ずるが如く、月の雲を離るるに似たり
一道の寒光、威(い)音(おん)劫(ごう)外(げ)

頌
騎牛已得到家山
牛也空兮人也閑
紅日三竿猶作夢
鞭縄空頓草堂間

牛に騎(の)ってすでに家山に至ることを得たり
牛もまた空(くう)じ人もまた閑(しずか)なり
紅(こう)日(じつ)三(さん)竿(かん)、猶(な)お夢を作(な)す
鞭(べん)縄(じょう)空しく頓(さしお)く草堂の間
 

****************************

 

ついに旅のクライマックスに突入する。何も頼るものなく、究極の世界へと旅立つのだ。

「真我の中に確立(アートマニシター)された人にとっては、一瞬でさえその没我状態から動いてはならないことが重要である。真の本性からそれると、彼は燦然(さんぜん)と輝く光を見たり、霊妙な音を耳にしたり、彼の内面或いは外面に現れる神々の幻想を実在だと見なしたりしてしまう。彼はけっしてこのようなことに惑わされて自己を見失ったりしてはならない。」(「あるがままに」)

臨済録(示衆)では「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、(中略)始めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在なることを得ん」というが、これは釈迦仏教本来の姿である信仰の放棄に通ずる教えだと思う。偶像崇拝に囚われていたら、真の悟りには至れないということだ。

 

確かに、戒律と信仰を重んじる人ならば、「幻想を実在だと見なしたりしてしまう」かもしれない。だがそれでは、その人の進歩はそこで止まってしまう。なぜなら、その光輝を神仏と思い込み拝んでしまうと、その中に入ることができないからだ。空と虚の悟りならまだしも、無の領域に到ることはできないだろう。だからラーマナの言うように、「このようなことに惑わされて自己を見失ったりしてはならない」わけだ。
 


元記事