一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-222

2025-05-22 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第七図 忘牛存人
序
法無二法、牛且為宗
喩蹄兎之異名、顯筌魚之差別
如金出鉱、似月離雲
一道寒光、威音劫外

法に二法無し、牛を且(しば)らく宗と為す
蹄(てい)兎(と)之異名に喩(たと)え、筌魚(せんぎょ)之差別を顕わす
金の鉱を出ずるが如く、月の雲を離るるに似たり
一道の寒光、威(い)音(おん)劫(ごう)外(げ)

頌
騎牛已得到家山
牛也空兮人也閑
紅日三竿猶作夢
鞭縄空頓草堂間

牛に騎(の)ってすでに家山に至ることを得たり
牛もまた空(くう)じ人もまた閑(しずか)なり
紅(こう)日(じつ)三(さん)竿(かん)、猶(な)お夢を作(な)す
鞭(べん)縄(じょう)空しく頓(さしお)く草堂の間
 

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忘牛存人は、ウパニシャッドにおける合一と再離脱に相当する。

まず合一だが、これは真我(プルシャ)が神我(ブラフマン)に到達することに他ならない。騎牛帰家で真我が肉体から離脱し、まるで吸い込まれるかのように神我と合一した時、仄々とした温かな光に包まれる。この時のウパニシャッドのサマディは、歓喜三昧と呼ばれている。そこで貴方は”生きていてよかった”、”生まれてきてよかった”と文字通り歓喜に包まれることだろう。このサマディから戻ると、大概の方が眼を潤ませている。だがこれは最初に到達する初歩的なレベルに過ぎない。ようやく真の修行がスタートした処だと言ってもいいだろう。


貴方がもし上達を望むなら、自らすすんで師の傍らに坐り、できるだけたくさんのサマディを体験すべきだ。その機会を与えるのが師の役目でもあるのだから、師が健在の内に一期一会の覚悟を持って、その貴重な機会を大事にした方がいい。それは必ずや人生の財産になることだろう。修行の進捗度は、期間の長さよりも覚悟の持ち方によって決ると言っても過言ではない。いつまでも師がいてくれると思ったら大きな間違いだ。だから浄心を心掛け、気を引き締めて参禅に向かうことだ。

弓聖・阿波研造翁はヘリゲルに言う。

「弓を射る前の1時間はできるだけ静かにしていて心を凝らし、正しい呼吸によって心中を平らかにし、外部のあらゆる影響から次第に身を鎖して行き、さてそれから冷静に弓を引き、その他はすべて成るがままにまかせておく。そのようにして次第に、完全な無我の境に近い状態、したがって無我の境に移りうる状態になる。」(「日本の弓術」)


阿波翁の教えは、参禅や瞑想にも当てはまる貴重なものだ。だがあえて付け加えるならば、できれば前日から心の準備をした方がいい。そして当日は坐る10~15分前くらいから徐々に止(シャマタ)を心掛けておくべきだろう。


ところで、「孟子」離(り)婁(ろう)篇下に斎戒(さいかい)沐浴(もくよく)という言葉がある。

「斎戒沐浴、則可以祀上帝(斎戒沐浴すれば、即ち以(も)って上帝を祀る可(べ)し)」。

これは、「斎戒沐浴すれば、天神(上帝)さえもその祀りを享け入れてくれるだろう」ということで、潔斎重要性を説いている。辞書によれば斎戒沐浴とは、「神仏に祈ったり神聖な仕事に従事したりする前に、飲食や行動を慎み、水を浴びて心身を清めること。『斎戒』は物忌みをすること。神をまつるときなどに、心身を清め汚れを去ること。『沐浴』は髪やからだを洗い清めること」(「新明解四字熟語辞典」)とある。
 


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