一般財団法人 野萩青少年育成財団
記事一覧に戻る

禅の十牛図 考-223

2025-05-23 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
***********************************************

 

第3章 第七図 忘牛存人
序
法無二法、牛且為宗
喩蹄兎之異名、顯筌魚之差別
如金出鉱、似月離雲
一道寒光、威音劫外

法に二法無し、牛を且(しば)らく宗と為す
蹄(てい)兎(と)之異名に喩(たと)え、筌魚(せんぎょ)之差別を顕わす
金の鉱を出ずるが如く、月の雲を離るるに似たり
一道の寒光、威(い)音(おん)劫(ごう)外(げ)

頌
騎牛已得到家山
牛也空兮人也閑
紅日三竿猶作夢
鞭縄空頓草堂間

牛に騎(の)ってすでに家山に至ることを得たり
牛もまた空(くう)じ人もまた閑(しずか)なり
紅(こう)日(じつ)三(さん)竿(かん)、猶(な)お夢を作(な)す
鞭(べん)縄(じょう)空しく頓(さしお)く草堂の間
 

****************************

 

魂魄とは、魂(一霊四魂)と魄のことだが、魄はさらに有形の魄(肉体)と無形の魄(想念等)に分かれる。孟子は斎戒沐浴による身心の清めを、そして「荘子」内篇はさらに深いレベルでの清め(心斎)を説くが、本来の潔斎とは有形はもとより無形(厳密には微かに有形的要素も併せ持つ)の「魂(四魂)の穢れ」も祓うものでなければならない。


体の汚れなら風呂に入ればいいし、心の穢れは日々の心掛けから正してゆけばいい。両方ともその気になればある程度はクリアできるだろう。だが無形の穢れは簡単には浄化できない。


「荘子」は心の斎みとして「虚」のレベルでの浄化が必要だと説くが、これも究極的な穢れの除去とは言えない。なぜなら、一霊四魂の四魂、即ちプルシャからアートマンを除いた4要素に残る最終的な穢れは、アートマンがプルシャから分離した時に離れてゆくものだからだ。そしてそれは肉体の死を伴う。この忘牛存人は、まさにそれに近いレベルの話をしているのだ。


勿論、修行の過程で無形の穢れも徐々にそして段階的に祓われてゆく。しかしどんなに頑張っても祓えない部分が残っていて、それが究極の融合を妨げている。それを私は最終的な穢れと呼んでいるのだ。


カタ・ウパニシャッドにも、「死神によって説かれたこの知識と、ヨーガの全規定とを得て、ブラフマンに到達し、汚れを離れ、死を超越した者となった」とあるように、ここでの浄化は、合一後に死を超越するために行なう最後の「穢れを離れ」でなくてはならない。


ところで神道には、古くから大祓詞という祝詞が伝えられている。この祓いの思想は神社などで祭祀を行なう際に生かされており、現代に至るまで神道思想の根幹となっている。(古神道では祓いは技術的にも多種多様で、特に幽斎として行う場合には祝詞などは一切用いないが)
 


元記事