一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-232

2025-06-01 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第八図 人牛倶忘


序
凡情脱落、聖意皆空
有佛處不用遨遊、無佛處急須走過
兩頭不著、千眼難窺
百鳥含花、一場懡*

凡(ぼん)情(じょう)脱落し、聖(しょう)意(い)皆空ず
有(う)仏(ぶつ)の處、遨(ごう)遊(ゆう)することを用いず
無(む)仏(ぶつ)の処、急に須(すべか)らく走過(そうか)すべし
両頭に著(じゃく)せずんば、千眼も窺(うかが)い難(がた)し
百鳥華を啣(ふく)む、一場の懡(も)*(ら)

頌
鞭索人牛盡屬空
碧天遼闊信難通
紅爐焔上爭容雪
到此方能合祖宗

鞭索(べんさく)人(じん)牛(ぎゅう)、尽(ことごと)く空に属す
碧天(へきてん)遼(りょう)闊(かつ)として信(しん)通じ難し
紅(こう)爐(ろ)焔上(えんじょう)、争(いか)でか雪を容(い)れん
此(ここ)に到って方(まさ)に能(よ)く祖宗に合(かな)う
 

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凡夫の心情が脱落し、さとりの心すらもなくなった。仏のいるところに遊ぶこともなく、仏のいないところも足を止めずに通り抜ける。有仏、無仏両方に落ちつくことなく、すべてを見通す眼を以ってしても窺い知ることはできない。鳥達が花を咥えていることなど、恥辱の場面だ。

凡情とは、凡人の心情。聖意とは、さとりの心。聖慧といえば、聖なる智慧。聖果といえば、聖道によって得られる智慧。聖域といえば、さとりの世界。遨遊とは、さかんに遊ぶこと。走過とは、足を止めずに通り抜けること。着とは、ひとところに落ち着くこと。啣むとは、くわえる。懡*とは、恥辱のこと。「百鳥華を啣(ふく)む、一場の懡*」に出来する、の逸話は牛頭法融禅師に由来する。禅師が坐禅に精を出して修行が深まっていった時、村人が供養に来ただけでなく、鳥達も華を唾えて近づいてきた。しかし悟りに至った時、今度は鳥が寄って来なくなった。つまり百鳥華を蜘むうちは未熟だということ。

この人牛倶忘は、ウパニシャッドにおける”死の超越(融合)”に相当する。最終的なゴールがどのようなものなのか?釈迦を例にとって、考察したい。

釈迦は、生前ニルヴァーナ(涅槃)に入ったことがなかった。こう言うと驚かれる方が少なくないだろう。だが、原始仏典の大パリニッバーナ経(大般涅槃経)の第6章24「死を悼む」に、釈迦が亡くなる時の情景が非常に詳しく述べられている。それによると、釈迦は次の様なプロセスを経て涅槃に入った。

1.初禅、2.第二禅、3.第三禅、4.第四禅、5.空無辺処定、6.識無辺処定、7.無所有処定、8.非想非非想処定、9.滅想受定、10.非想非非想処定、11.無所有処定、12.識無辺処定、13.空無辺処定、14.第四禅、15.第三禅、16.第二禅、17.初禅、18.第二禅、19.第三禅、20.第四禅、21.涅槃(ニルヴァーナ)


初禅、第二禅、第三禅、第四禅を総合して通常「四禅定」という。

これは色界に於ける四つの段階的な境地を得るための禅定を指しているが、その上にさらに「四無色定」と言われる無色界の禅定(空無辺処定、識無辺処定、無所有処定、非想非非想定)と、「滅想受定」が続く。これらは原始仏教の禅定法として広く知られているものだ。ここでは先ず、釈迦がニルヴァーナに入るために、上記の様な21段階ものプロセスを経なければならなかったという点に注目したい。

「尊い方。アヌルッダよ。尊師はニルヴァーナに入られました。」
「友、アーナンダよ。尊師はニルヴァーナに入られたのではありません。滅想受定に入られたのです。」(「ブッダ最後の旅」)

この会話は大パリニッバーナ経に登場する。一番深いと想われていた滅想受定は、ニルヴァーナではなかった。それは釈迦の弟子達も理解していたのだ。
 


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