2025-07-03 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第十図 入鄽垂手
序
柴門独掩、千聖不知
埋自己之風光、負前賢之途轍
提瓢入市、策杖還家
酒肆魚行、化令成仏
柴門(さいもん)独(ひと)り掩(おお)うて、千(せん)聖(しょう)も知らず
自己之風光を埋(うず)めて、前賢(ぜんけん)之途(と)轍(てつ)に負(そむ)く
瓢(ひさご)を提(さ)げて市(いち)に入り、杖(つえ)を策(つ)いて家に還(かえ)る
酒(しゅ)肆(し)魚行、化(け)して成仏せしむ
頌
露胸跣足入鄽來
抹土塗灰笑満顋
不用神仙真秘訣
直教枯木放花開
胸を露(あら)わし足を跣(はだし)にして*(てん)に入り来る
土を抹(まつ)し灰を塗って笑い顋(あざと)に満つ
神仙真秘の訣(けつ)を用いず
直に枯木をして花を放って開かしむ
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かつて私はそう思い廓庵版が好きになれなかったのだが、その後やや考え方を改めた。それは廓庵版の成立した頃と、我が国に導入された頃の時代的背景による。
釈迦以来、民衆と共にあった仏教は、時代の移りかわりと共に極めて難解なものとなり、一部の知識階層の占有物になってしまった。そして国ごとに変容してゆく。
インドでは、8世紀頃からタントリック的要素(性的瑜伽等)を大幅に取り入れた後期大乗仏教(大楽思想)が起こり、釈迦が見たら卒倒しそうな内容に変化した。他方、中国では、元々道家にも、修行に房中術を用いない清浄派と、積極的に性的技法を駆使する交接派の2通りがあったので、仏教についてもきちんと住み分けがなされ、禅などが盛んになってゆく。
しかしながら中国の清浄派的仏教はあまりに難し過ぎて、とても一般大衆には理解できなかったため、その乖離を縮小しようとして浄土思想が役立てられた。特に難解だった禅の中にも、宋代(960-1279年)以降、浄土思想が深く入り込み、仏教の大衆化と共に念仏禅として一世を風靡する。中国で牧牛図が描かれた頃、つまり10~11世紀の中国禅は、禅浄一致思想の念仏禅が隆盛だったのだ。
日本でも平安仏教が高度な学識と厳しい修行を要求したことで、仏教は一部の特別な人達の所有物となってしまった。ところが鎌倉時代になると、道元、法然、親鸞、日蓮等が、武士や庶民を対象に布教活動を行ったことで、徐々に仏教の大衆化がすすむ。その後、専門的に伝えられてきた仏法を、辻説法などで、文盲の人達に対しても易しく説く工夫がなされるようになり、仏教が身近なものになってゆく。そのような時代背景が、禅宗四部録に廓庵版の牧牛図を採用させたのだと想う。それはある意味社会的な要請だったのかも知れない。