一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-262

2025-07-01 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第十図 入鄽垂手


序
柴門独掩、千聖不知
埋自己之風光、負前賢之途轍
提瓢入市、策杖還家
酒肆魚行、化令成仏

柴門(さいもん)独(ひと)り掩(おお)うて、千(せん)聖(しょう)も知らず
自己之風光を埋(うず)めて、前賢(ぜんけん)之途(と)轍(てつ)に負(そむ)く
瓢(ひさご)を提(さ)げて市(いち)に入り、杖(つえ)を策(つ)いて家に還(かえ)る
酒(しゅ)肆(し)魚行、化(け)して成仏せしむ

頌
露胸跣足入鄽來
抹土塗灰笑満顋
不用神仙真秘訣
直教枯木放花開

胸を露(あら)わし足を跣(はだし)にして*(てん)に入り来る
土を抹(まつ)し灰を塗って笑い顋(あざと)に満つ
神仙真秘の訣(けつ)を用いず
直に枯木をして花を放って開かしむ

 

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一般的には、上求菩提・下化衆生ということで、衆生に道を説くのも僧侶の役割だと考えられているが、本来であればそれは悟った者だけに許されることではないだろうか。だから廓庵版でも布袋を登場させたのだと思う。

 

もし指導者が迷子になったら、後ろに続く者達も同じく道に迷う。責任を持った指導をしたければ、ある程度自信を持ってからにすべきだ。孔子は言う。「知之爲知之。不知爲不知。是知也(知るを知るとなし、知らずを知らずとなす。是知るなり)」。巷間「知らずを知るとなす」ような指導者をよく見かけるが、残念というか情けなく思う。


修行とは、師の悟りを検証し、且つ自分のものにすることだ。だから未熟な修行者に指導などできるわけがない。いくら他人の言葉を並べても、自身が体得していなければ、説得力などない。聞きかじりと読みかじりで偉そうなことを言っても、すぐに底が割れてしまうだろう。
 


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