2025-06-30 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第十図 入鄽垂手
序
柴門独掩、千聖不知
埋自己之風光、負前賢之途轍
提瓢入市、策杖還家
酒肆魚行、化令成仏
柴門(さいもん)独(ひと)り掩(おお)うて、千(せん)聖(しょう)も知らず
自己之風光を埋(うず)めて、前賢(ぜんけん)之途(と)轍(てつ)に負(そむ)く
瓢(ひさご)を提(さ)げて市(いち)に入り、杖(つえ)を策(つ)いて家に還(かえ)る
酒(しゅ)肆(し)魚行、化(け)して成仏せしむ
頌
露胸跣足入鄽來
抹土塗灰笑満顋
不用神仙真秘訣
直教枯木放花開
胸を露(あら)わし足を跣(はだし)にして*(てん)に入り来る
土を抹(まつ)し灰を塗って笑い顋(あざと)に満つ
神仙真秘の訣(けつ)を用いず
直に枯木をして花を放って開かしむ
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十牛図については、これまで多くの人達が解説してきた。禅宗の方々から学者まで、自らの教義や哲学に従って提唱を行なったり本を書かれている。特にこの第十図については、総じて廓庵版に好意的で、上求菩提・下化衆生の理想をここに見ているようだ。佛教語大辞典でも、垂手を「師家が手を下して修行者を導き教えること」、「親しく衆生に救いの手を垂れて教化すること」としている。仏教が宗教として社会に貢献するにはそのような理解でもいいと思う。
もともと廓庵版の第九図と第十図については様々な意見があった。曰く、”道家は八図まで、禅の優れたるは九図と十図だ”、”第八図の悟りは小乗的な自己満足に終わりかねない。深山幽谷で悟りを維持するのは、それを得た人間にとっては左程困難な事ではないだろう。むしろ難しいのは、大悟した後に街へ戻り、雑踏の中でその境地を保持し続けることだ”云々。
確かに、そういう意見も納得できる。人里離れた山奥に引き篭って独り純粋でいるのを楽しんでいるだけでは、何のための悟りかわからない。それが天命ならばそれでもいいが、そうでないなら街中でその状態を維持し、天意に沿って生きる方がいい。だがそれは、もしかしたら大悟に到る道よりも困難かもしれない。その意味では、山奥に引き篭もるより、街中に帰った方が本人にとっても修行になるだろう。