一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-268

2025-07-07 著者:小山一夫

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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第十図 入鄽垂手


序
柴門独掩、千聖不知
埋自己之風光、負前賢之途轍
提瓢入市、策杖還家
酒肆魚行、化令成仏

柴門(さいもん)独(ひと)り掩(おお)うて、千(せん)聖(しょう)も知らず
自己之風光を埋(うず)めて、前賢(ぜんけん)之途(と)轍(てつ)に負(そむ)く
瓢(ひさご)を提(さ)げて市(いち)に入り、杖(つえ)を策(つ)いて家に還(かえ)る
酒(しゅ)肆(し)魚行、化(け)して成仏せしむ

頌
露胸跣足入鄽來
抹土塗灰笑満顋
不用神仙真秘訣
直教枯木放花開

胸を露(あら)わし足を跣(はだし)にして*(てん)に入り来る
土を抹(まつ)し灰を塗って笑い顋(あざと)に満つ
神仙真秘の訣(けつ)を用いず
直に枯木をして花を放って開かしむ
 

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修行経験がない方にはややわかり難いかも知れないが、ウパニシャッドや原始仏教の止観と、密教の止観は全く別物だ。前者の止は心の作用の止滅であり、観は観照を意味する。そして無を求めて修行を徹底する。対して、後者の止は精神の集中であり、観とは観想を指す。そして三密加持を徹底する。このような顕密の技術上の違いは当然のことながら三昧の質をも異なったものにしている。


密教では、道場観によって修法の対象を極限までリアルに思い描き、それに対し入我我入することで同一化を図る。だから心の作用の止滅とは明らかに逆行するし、信仰の介在する余地を残している。ここに禅やウパニシャッドとの基本的な違いがあると言ってもいいだろう。


道元も「心意識の運転を停め、念想観の測量を止め」(普勧坐禅儀)というが、この時に観想などできるはずがない。”集中”と”心の作用の止滅”、そして”観想”と”観照”だが、そもそもこれらは対極にあると言ってもいい。それをよく理解してから牧象図をみるべきだろう。


蛇足だが、チベット版の牧象図では、ヨーガ行者と象だけでなく、猿、兎、火炎、鏡、シンバル、法螺貝、桃、布など多彩なアイテムが登場し、それぞれに意味を持たせている。能仁先生は、この鏡以下は五感の対象(色・声・香・味・触)を表すとされているが(登場する順序は逆)、確かにそうかもしれない。ヨーガスートラの制感でも、私達は”触”から練習している。


結論を言えば、チベット牧象図は密教の止観を描いたものなので、表面上は禅の牧牛図と似ているものの、本質的なところでは、同じ世界を志向しているとは言えないということだ。
 


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