一般財団法人 野萩青少年育成財団
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ヨーガスートラ 考-32

2025-08-10 著者:小山一夫

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ヨーガスートラについて技術的な側面から解説します。
(「ヨーガの極意」より)
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私は当初よりヨーガから信仰などの宗教性を排除してゆくというスタンスですので、まず内観から始め、そこで培った繊細な感覚を以って外観を深めてゆくという手法を採用しています。


また外観に於いては、師のような精神集中の対象を用いず、自分を取り囲む大気の質を、様々な角度から繊細に観察するように提案しています。それは後日、静慮によって肉体感覚の消失を自在に行なう際により有効な下準備となりうるというのも理由のひとつです。

ラーマナ・マハーリシ師は、次のように語っています。


「瞑想とはひとつの想念だけを想いつづけることだ。そのひとつの想念が他の全ての想念を遠ざける。心の散漫は精神力の弱さの兆候である。たゆみなく瞑想を続けることによって心は力を得ていく。つまり、移り変わりやすい心の弱さが、その背後にある恒久的な無心状態に場を明け渡すのだ。この無心の広がりが真我である。」(P206)

この「他の全ての想念を遠ざける」力を養うのが、凝念の修行となりますが「恒久的な無心状態に場を明け渡す」には、前述のように静慮が不可欠です。ただ凝念の力が弱くては、静慮もままならないのは言うまでもありません。この相反する力は、実際にはベクトルの向きの違いに過ぎません。凝念の力が弱ければ、静慮もまた弱いのです。この表裏のような両者の力は、三昧に入る際にも不可欠なものとなります。
 


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