2025-08-21 著者:小山一夫
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ヨーガスートラについて技術的な側面から解説します。
(「ヨーガの極意」より)
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ところで、なぜパタンジャリーは三昧に二通りの分類を用意したのでしょうか。もし両者が同じものを意味するのであれば、区別する必要はないはずです。ですから私はその意味と目的を考えるべきだと思います。
これについては、三昧の定義(3-3)と、定の定義(1-41)を比較検討すれば、ある程度推測することができるでしょう。
「その静慮が、外見上、その思念する客体ばかりになり、自体をなくしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である」(3-3)
「かくして心の作用がすべて消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように、心は認識主体(真我)、認識器具(心理器官)、認識対象のうちのどれかの上にとどまって、それに染まる。これが定とよばれるものである。」(1-41)
佐保田博士によれば「定(サマーパティ)は三昧というのと内容に於いてはちがわない。(中略)定義の仕方は多少ちがっているが、主旨は変わらない。」(P82)と述べておられますが、ならば何故、ヨーガスートラでわざわざ別の基準に基づく分類を掲げて個別に説明をしなければならないのでしょうか。
もちろん(1-46)にあるように、定は、三昧の中に位置づけられているわけですので「定義の仕方は多少違っているが、趣旨は変わらない。」というのも頷けますが、それでは迷路に嵌ってしまうようで、わざわざ分類した意味が明確ではないように思います。
博士は(1-18)の解説で「この二種の分類は決して同じではない」と、断じておられますが、それでは「決して同じではない」というその違いについてここで検討してみましょう。