一般財団法人 野萩青少年育成財団
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ヨーガスートラ 考-47

2025-08-25 著者:小山一夫

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ヨーガスートラについて技術的な側面から解説します。
(「ヨーガの極意」より)
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ところで、ラーマナ・マハーリシ師はディヤーナとサマーディの違いについて実に明瞭な言葉で説明しています。究極のサマーディに於いては努力する主体である我はすでに存在しないのです。


「ディヤーナは、意図的な精神的努力によって達成される。サマーディにおいてはそのような努力はない。」(「あるがままに」P206)

努力は「意」の働きの表れです。

ですから無想三昧や無種子三昧の境涯では、当然努力など介在する余地はありません。

「外的サマーディとは世界を目撃している間も、内面ではそれに反応することなく実在をとらえていることだ。そこには波のない海の静寂がある。内的サマディは身体意識を失った状態である。」(P279)

これは実に的を得た表現だと思います。
師の文学的な才能の素晴らしさと、至った境地の確かさがよく表れています。


『反応することなく実在をとらえている』『身体意識を失った状態』、というのがここでの大事なポイントです。意の動きが止まった状態で、観がそのあるべき姿となり、空と虚を体現する、それこそがまさに「ヨーガのサマディ」なのです。
 


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