一般財団法人 野萩青少年育成財団
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タントラとヨーガ 考-65

2025-11-19 著者:小山一夫

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ヨーガとタントラについて技術的な側面から解説します。
(「ヨーガの極意」より)
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「他書に説いていう」として(「ウパニシャッド」P284)
「もし賢者あって、意を制し、調気して、感官の諸対象を遠ざけ、かくして、無思慮の状態に立ち得るならば、元来生気(プラーナ)と呼ばれる生命(個人我)は非生気から生じたものであるから、彼はこの生気を調気によって第四位と名づけられたところに執持することができるであろう。」(19)

この第四位とは、博士によれば「ヨーガの心境の最後の段階」であり、マーンドゥーキァ・ウパニシャッドの「自我の四足」(6)と同意とのことです。これは「自我それ自身になりきる段階」として「神秘的忘我」(「ウパニシャッド」P382)を意味するそうです。しかしながら、その解釈に基づくならば、技術的に執持というのは適切ではないと思います。


「意識の動きが完全になくなったときに、自我は自分の方から現れてくる」(「ウパニシャッドP374」)


ですから、「自我の四足」の第四位では既に心の働きは止滅しているわけです。


この場合、執持が凝念だとすれば、意識の動きが完全になくなった状態で、「調気によって」凝念し、生気を担持することになってしまいます。その意味では、私は、むしろ「自我の4足」よりもヨーガスートラの「第四の調気」に関連付けて解釈した方が納得できます。


つまり「内外の対象を排除したものが第四の調気である」(2-51)
という句に従って、身体感覚の消失した状態を維持すべく、そこに生気を以って執持をかける、という解釈です。

「一書に説いていう」として(「ウパニシャッド」P284)
「それよりもさらに高い執持がある。舌端を上顎に圧しつけ、語・意・息を抑制し、梵を思索によって直観するのである。もし、意の作らきが消滅し終わって、自我を介してかの微なるよりも微にして、光明赫々(かくかく)たる自我を直観するときには、自我によって自我を見る結果として無我になる。無我なるよりして彼は不可量、無所依といわれる。これ即ち解脱の微相であり、至上の玄秘である。」(20)
 


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