2026-02-23 著者:小山一夫
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ヨーガとタントラについて技術的な側面から解説します。
(「ヨーガの極意」より)
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「意をシャクティ(=クンダリニー)のうちにおき、シャクティを意のうちにおき、[シャクティと意とを合一した上で]、意をもって意(=覚)を観察して、至上の境地を保持すべし。」(4-54)
「眉と眉の中間にシヴァ神の座がある。そこに意が没入する。この状態こそは、いわゆる第四位なるものであると知るべし。そこには『とき』(死)は無い。」(4-48)
そこで、ハタ・ヨーガの合一を、体内のシャクティとシヴァという個の次元に限定し、一旦宇宙意識に到達させてから、ラージャ・ヨーガにより真我独存に導くと考えれば一応の筋道は立つのですが、存在論や神観との関わりからは、やはり整合性が取れません。
そこでヨーガ学派やヴィヤーサのように、最高主宰神自体の定義を変えて、さらにウパニシャッドやヴェーダーンタ哲学の思想を上手に取り入れ、合一を最終的な解脱に作り変えませんと、この一連の流れの正当性を裏付けられないと思います。
しかしながら数百年間続いた解脱論の根幹を成す神観と存在論のベースを、そう簡単に変えてしまってよいのでしょうか。
例えばヨーガスートラの技術は、本来ヨーガスートラの理想(分離による解脱)を達成する為に、
編み出されたものであるはずです。分離の技術が合一の目的にそのまま対応できるのでしょうか。
もちろん仏教でも釈迦の主張は死後ほどなく変容し始め、その後度重なる新しい理論の展開で大乗非仏論といわれるように、全く別の教義になってしまいました。
解脱に至るプロセスや技術についてもその都度変わっていった為に、仏教の名の元に数多くの宗派が生まれました。そう考えますと、ヨーガにおけるこの程度の変身は、大したことではないかも知れません。しかし、ヨーガは本来信仰ではなく技術なのです。