2026-03-31 著者:小山一夫
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昔書いた日記からいくつかアップします。
2002-10-4
ミリンダ王の問い-2
「大王よ、たとえば、ある人が船で大海に乗り出して、手の窪みで海水を汲んで、舌で味わったならば、その人は『これはガンジス川の水である。これはヤムナー川の水である。(中略) これはマヒー川の水である』ということを知るでしょうか?」(第7章第15「すぐれた心理現象の分析」より)
私は昔、輪廻について次の様に考えた。
Bodyは器であり、Mindは脳の働きである。生命の根源たるものはSpiritとしてBodyにいのちの息吹を与え、而してMindを観照する。
海に行きコップで海水をすくう。コップは器であり、海水をすくうことで生命を宿す。もしもコップの海水を海に還したとしよう。再び、海水を器にすくったときに、最初の海水と次の海水は同じものだといえるだろうか。海水は器にすくわれたときに「個」としての存在を与えられる。その「個」が全体に帰して、ひとたび融合されたならば、もはや決して同じものは還らない。
カラの器こそまさに『虚』であり、(例えば無重力空間で)中の水だけになるならば『空』だといえる。
そして海に還り全体と融合した時こそが『無』なのだ。
「空、虚、無」という言葉は、般若心経などの経典に数え切れないくらい出てくる言葉だが、学者や僧侶の解説本などを見ても、その言葉の意味の違いについて明瞭に述べたものを私は知らない。体験なくして理解もないということか。