一般財団法人 野萩青少年育成財団
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2003年の日記から―79

2026-05-17 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

昔書いた日記からいくつかアップします。

 

 

2003-2-5
タントリック・ヨーガ-10 性瑜伽の修行-11


『光明が、持金剛、つまりあなたの頭頂の梵孔(ブラフマ孔)あるいは口から入って、体内の中央脈管を下り、金剛(男根)に至る。その光明を、金剛からユム(女尊)の蓮華(女陰)のなかに射出しなさい。射出された光明は、ユムの蓮華のなかに溶融する。溶融した光明は、ユムの子宮のなかで、十一の微細な滴(ビンドゥー=テイクレ)となる。十一の微細な滴は、阿シュク金剛と十の忿恕尊に変容し、数珠繋ぎになってユムの子宮のなかに宿る。』NO3より


『忿怒の真言が、まずユム(女尊)の口に入り、中央脈管を下降して蓮華に入り、次いで修行者自身であるヤブ(男尊)の金剛に吸い上げられ、中央脈管を上昇して口にいたり、ヤブの口からユムの口に再び入る、という循環を繰り返す。忿怒の念誦では、心真言などを、猛烈な勢いで唱えなさい。これらは、三つで一組になった念誦である。』NO42より



この様に技法としてはわりと具体的な指示ではあるが、実際に出来るかどうかが問題だ。生起次第ではあくまで『観想』できればよいということになっているが、それでは現実に出来た事にはならない。そこでより深い教えである究竟次第が必要になるわけだ。

 

この「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」は生起次第の代表的な次第書だが、基本的な原理は日本密教の本尊法等の次第書と類似している。つまり構成的に道場観から入我我入観へという流れになっている。


かってはインドでもチベットでも性瑜伽を現実の異性を相手に実践していたのだが、ツォンカパ辺りから、観想で性瑜伽を行なうのが主流になってしまった。後述するが、灌頂などでもアイテムの代用物が多用され、当初のスタイルではなくなってきている。しかしながら、それでは性瑜伽の意味がないし、エネルギーの活性化という本来の目的も充分に果たせないだろう。残念ながら、チベット密教においては、レッド・タントリック・ヨーガは宗教の足枷によって本来の力を失ってしまった様に思える。


<参考>
道場観から入我我入観へという日本密教の基本的な流れは、チベット密教ゲルク派では、3段階の三昧(サーマディ)として(初加行三摩地・マンダラ最勝王三摩地・羯磨最勝王三摩地)現存している。
 


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