一般財団法人 野萩青少年育成財団
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2003年の日記から―105

2026-06-12 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

昔書いた日記からいくつかアップします。

 

 

2003-5-21
少林寺拳法-2 守・破・離②


私が火の呼吸の修了に付いてよく話をするが、それは技が洗練されてゆく上でのプロセスのひとつだと言える。磨かれてゆけばゆくほどに技はシンプルとなり繊細になってゆく。それはあたかも大理石の塊の中から、美しい彫刻が刻り出されてゆくようなものなのだ。完成に近づけば近づくほどデリケートで絶妙な技法が求められる。


<参考>
『正しい「破」「離」の条件
 さて、先生に習って、一通りできるようになった。そこで、それに磨きをかけるときには、どのような考え方でやれば効率よく進歩するのか?その物指しは次の二つである。
(一)目的と意味をもって行なうこと
あらゆる「動作」には、「何のためにやるのか」という「目的」があり、「こうすればどのような効果があるか」という「意味」がある。
動作の目的を見失うと、見当違いのことに一生懸命になって無駄な労力を費すことになる。動作の一つ一つの持つ意味をよく吟味しないで、練習を重ねても効果はあがらない。意味を意識しながら技を行えば、自分の出来の悪い所を自分で修正して行くことができる。
(二)無理と無駄をなくすこと
 「目的と意味とを常に意識すること」を、技に磨きをかける「荒砥」とすれば「仕上げ砥」にあたるのは「無理と無駄とをなくすること」である。一つの動作を十等分して、その一コマ一コマに、「無理な所はないか?」「無駄な所はないか?」と吟味して、あれば全部切捨ててしまうこと。
あらゆる動きから、一切の「無理と無駄」という贅肉をとり去って、一連の技のどこをとり出しても十分に洗練され充実している即ち「最小限の力で最大限の効果をあげえるもの」という所まで持って行くことである。
 これは別名「技の効率」という物指しである。「効率」とは、「消費した力の何%を有効な仕事に変化させることができたか」という割合のことであるが、「効率をよくする」とは「最小の力で、最大の効果をあげること」にほかならない。
 「これ以上力を少くすることはできない」「これ以上動きを少くすることはできない」というギリギリまで節約して、しかも相手をきれいにフッとばすことができればよいわけである。
我々の技の上手、下手の競争の焦点は、ここに向けられるべきであって、このようにして磨きあげられた技は、一つの芸術品と呼ばれてよいものにまで昇華する。
我々の演武会は、これらの芸術品の品評会といってもよいのである。
 技というものは、一人で研究するよりは、多くの先生に学べば学ぶほど多くの収獲があるものである。一人で考えあぐねていたことが、ある人の技を見て、フッと思い当る所があり、それから見違えるように進歩するというようなことが始終ある。
これが「拳法開眼」と言われるもので、同じ技に対しても、何度も起る現象である。開眼は多ければ多いほどよい。
眼の前からウロコが一枚ずつ落ちて行き、やがて、その技の隅から隅まで明瞭に見えるようになったとき、よりすぐれた境地に一歩前進するのである。「如何に多くを吸収することができるか?」が、その人間が伸びるかどうかのわかれ目である。』(少林寺拳法教本より、1974年発行)
 


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