2026-06-22 著者:小山一夫
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昔書いた日記からいくつかアップします。
2003-6-7
司馬遷・史記-1
出張に際して本を持参した。司馬遷の史記だ。
史記はこれまで何度か読んだことがあるが、今回は今までになく感動した。
史記は、前漢の武帝の代に太史公・司馬談の子、司馬遷によって編纂される。太史公とは、暦を作ったり、国家の祭司を取り仕切る役割だ。司馬遷は景帝の代に洛陽の西南夏陽で生れたとされている。幼少にして孔安国博士に五経を学び、20歳にして諸国を遍歴する。この2年間の諸国漫遊でその土地々々の風俗、習慣、民族性、歴史など多くを学ぶことが出来た。それが後の史記編纂にどれほど役立ったことだろうか。
帰国後、彼は郎中(侍従補佐)に任命されて官吏となる。10数年殆んど昇進もなく落胆していた彼に、匈奴視察の任が与えられた。その時司馬遷35歳。折りしも武帝は始皇帝以来誰も行なわなかった封禅の儀式を準備していた。封禅とは、天命を受けた者が、泰山の山頂に赴き、壇を築き天地を祭る事によって真の天子となる崇高な儀式だ。この思想は春秋時代に生れたが、始皇帝がその式次第を秘していた為に、後世に伝わっていなかった。司馬談はこの封禅の準備に心身共に疲れ果てたことが原因で病に伏し、司馬遷の帰国を待つかのように息を引き取った。
司馬談がかねてから手掛けていた歴史書製作を引き継ぐことの歴史的重要性に気づいた司馬遷は、父の死に際して自らの使命を悟る。だが、武帝は封禅の後、新たな歴の制定を命じた。元封3年、太史公となった司馬遷は勅命により歴編纂に取り組むことになる。4年の歳月を経て、歴(太初歴という)は完成した。これは20世紀の清王朝滅亡までの凡そ2000年間にわたって、中国のみならず広く用いられることになる。
司馬遷はこの大役を無事に勤め上げ、ようやく父の遺志をついで、歴史書編纂に取り掛かるが、匈奴討伐失敗のあおりを受けて罪に問われる。これは敗北した将軍を擁護するような発言が武帝の怒りを買った為だった。48歳の時のことである。彼は死刑を免れる為に、宮刑を選んだ。宮刑とは男性器を切断する過酷なものだったが、彼にとっては、何よりも父の遺志を継ぐことが大事だったのだ。
一時の怒りに任せて不合理な刑を命じた武帝は、司馬遷の才能を惜しむと、中書令という官職を新たに設け、宮中のあらゆる書簡を自由に閲覧できる地位を与えた。(司馬遷の人生については、「漢書」の司馬遷伝に詳しい。)