2026-06-27 著者:小山一夫
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昔書いた日記からいくつかアップします。
2003-6-13
孫禄堂老師 明・暗・化勁と丹道の三層-4
孫禄堂老師の書を読むと実に丹道つまり道家・仙道の修行法に関する記述が多いが、内功法を基本とする内家拳にとって、それは当然の事だと言えよう。ここにおいて、武術は単なる人殺しの技術ではなく、真人への道であり、その有効な技術そのものとなる。孫禄堂老 師の本を読んで印象深かったのは、特に最終章の「わが練拳の経験と三派の精意」だが、これは真人完成への道程そのものであり、まるで許老師の「築基参証」を読んでいるかのような錯角にとらわれてしまう。
孫禄堂老師は、「ここに至ってまさに拳術と丹道がひとつの理である事を知ったのである。」と述べている。それは孫禄堂老師の「拳は道なり」という記述にも通じている。
ここに於て「武」は単に「弋(ヨク)を止める」だけのものではなく、「道」へと昇華してゆく。この最終章たる第8章を読むと、孫禄堂老師が如何に内功法を重視していたかがわかるが、それは単に形に拘るものではなく、丹道そのものと言ってもよい内的な研鑚と探求だった。これこそが武術気功としての内功法であり、内家拳の真髄なのだろう。ヨーガのサイトで拳法など異質ともいえる中国的な話が多いのに意外に思われた方も多いことだろう。だが、孫禄堂老師のレベルになると、師が説いておられるように「ひとつの理」に到達するのだ。それらは正しく行なわれる限りに於いては、互いに相乗効果をもって補完しあう。
ところで、この「拳意述真」を読みこなすには相当な丹道の知識が必要だ。私はもっとも適切な参考書として「築基参証」と「説文解字」を推薦する。孫禄堂老師の功績を単に知識としてだけでなく、体感し体現する為にも、その意を正しく学ぶことが必要だと思う。孫禄堂老師は丹道の修行によって拳の深奥を究められた。その真価を味わう為にも、師の説く内功法を真摯に研鑚すべきだろう。
第一層 明勁 練精化気 武火
第二層 暗勁 練気化神 文火
第三層 化勁 練神還虚 火候純 火候、純にして内外一気が成る
再練 無勁 練虚合道 無火 行止座臥、一言一黙、往けば道に合わないものはない
さて2003-6-2でも書いたが、第三層はゴールではない。むしろその後の方が長い道程なのだ。練神還虚は道(TAO)に至る玄関レベルだと言ってよいだろう。ある意味、そこからが修行の本番であり、ゴールは程遠い。故に、孫禄堂老師も巻末に、(「きみはもう『拳意述真』を読んだか」)
「拳術は虚を練って道と合するに至る。これはまさに真意が化して至虚、至無の境に達したのである。
不動となったとき、内中は寂然として空虚となり、ひとつもその心を動かすものはない。もしも忽然として不測の事態が起きても、見ざる聞かざるのうちにこれを察知して避けることができる。
『中庸』にいう「至誠の道は事前に知ることができる」とはこの意味である。至誠の道に到ることができた者は、三派拳術の中で私の知る限り四人だけである。すなわち形意拳の李能然先生、八卦拳の董海川先生、太極拳の楊露禅先生及び武禹蓑先生である。これら四名の先生はみな見ざる間かざるのうちに知覚する力を持っておられた。
その他の諸先生はみな見て知り聞いて知る知覚力のみであった。もし外から不測の事態が生じたときは、まず眼で見、耳で聞くことが必要であった。来る者がいかに快速であっても、みなよくこれを避けることができる。それは修練が虚の境地に入っていたからではあるが、ただし至虚に到らなければ見ざる間かざるのうちに知覚することはできないのである」と述べられている。
郭雲深老師の名前が見られないのは意外だが、いずれにしても無勁つまり練虚合道のレベルはとてつもなく難しいという事だ。
<注>
いつか書くつもりだが、孫禄堂老師も使い分けているように、「空、虚、無、道」等の語は別々の意味をもつ。
例えば、練神還虚とはいっても絶対に練神還空とは言わない。練神還空では理論的にも成り立たないからだ。まして練神還無なんて言ったら失笑を買うだろう。
日本で出版されている仏教書、特に禅関係の本を見ると、私の知る限り、これらを全く同じかの様に解説している本が殆んどだが、もしも大悟の境涯に至った方ならば、決して同一の意だとはいわないだろう。失礼な言い方かもしれないが、それだけでその方の禅の境涯が知れてしまう。「説文解字」ではないが、言葉は慎重に使い分けるべきだ。