2026-07-08 著者:小山一夫
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昔書いた日記からいくつかアップします。
「ニルバーナのプロセスとテクニック」 ダンテス・ダイジ著
『二元は一番最後まで対立する。
それから先は
人間的なことではない
本当のこの世との一切の別れは
本当にこの世のすべてを理解するには
貴方が、貴方の肉体の頭部の光の智慧に導かれて
限りない道の広がりへ出てゆく時である
つまり、あなたは
唯一の限りない出会いと一瞬一瞬に
別れを告げているということなのだ。
それが愛の始まりであり、
それが愛の終わりなき終わりなのだ。』
この本はとても興味深い。
読んでいると、かなりおかしいと思うところが多々目に付く反面で、ドキッとする部分も少なくない。特に行法については、マントラ禅には賛成できないし、丹田禅は余り意味を感じない。クンダリーニ・ヨーガの行法は、殆んどハタヨーガの領域であるし、只管打座を最終的なゴールに持ってきていることにも異論がある。
しかしながら、多々ある異論はさておき、評価すべき幾つかのポイントを列挙したい。
いずれにしても、彼の至った境地はとても評価できるだけに、彼がこの本で書いている行法があまりに釣合いが取れていないと思う次第である。時間のあるときに、詳細に検討したいが、今回は幾つかの点に絞って話を進めることにする。
1. 冒頭の言葉
ここではこの本の通りに修行しておかしくなっても責任はもてないと書いている。よく読むと、確かに随分荒っぽいやり方である。私はほとんど評価していない。特にマントラ禅は最悪だと思う。読者がそのまま取り組まないことを祈るが。
2. 注目すべき所
① P34 ② P37 ③ P41 ④ P93 ⑤ P98 ⑥ P99 ⑦ P100
⑧ P101 ⑨ P102 ⑩ P103 ⑪ P104 ⑫ P105 ⑬ P120 ⑭ 126-129
3. 著者略歴 (同書より)
1. 1950年2月13日東京に生まれる
2. もの心ついて以来、誰に教わることなく、坐禅瞑想を続ける。
3. 17歳、6月26日、神に目覚める。
4. 18歳、道元直系の只管打座により、身心脱落、大悟徹底。
5. 以降古神道の大要を体得する。
6. 臨済宗において、見性を許される。
7. インドにおいて、ババジ直系のクンダリーニ・ヨーガにおいて究極の解脱に達する。
8. 1987年12月11日、遷化する。
18歳で完全に身心脱落出来たのならP120の説明と矛盾するのではないだろうか?
また、後年、クンダリーニ・ヨーガにおいて究極の解脱(?)を得る必要もないだろう。
彼は、只管打座を最後に持ってきながらP121において17歳の時の体験を述べている。
その時の体験は単なる「空」の体験に過ぎない。「無」を体得した時期はインドであったと私は推測している。
マントラ禅や丹田禅の最大の欠点は、受動であること。
また「無」を体得すれば、その後は特別な方法は必要なくなるから、ただ座るだけという意味で只管打座を持ってきたのだろう。そう解釈すれば、P120の記述も頷けるけれども、実際には座る必要さえもないのだが。