2026-07-23 著者:小山一夫
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昔書いた日記からいくつかアップします。
意・識について
意識とはなにか?
これは私個人の解釈ですが、「意」とは心の働きであり、「識」とは意の活動する領域だと思っています。識を安定させるとは、つまり脳波を静寂のうちに安定させることであり、松果体や視床下部の内分泌を抑制することです。
座っているときに雑念ばかりで落ちつかない、心が乱れると言うのは、識が安定していない為に、動き回る意に翻弄されている状態だと解釈しています。内分泌腺を制御し、識を安定させれば容易に空や虚を体得できます。瞬時に脳波を安定させることが出来なければ、到底三昧にははいれません。心が乱れているときに、どんなに静まれ、落ちつけと命令しても徒労に終わります。達磨大師が、何故座禅とあわせて易筋行を指導したか、その理由を考える得るべきです。
シャマタ・ビバシャナは、理屈で考えて出来るものではありません。肉体をコントロールして初めて、「識」を安定させることが出来、「識」が安定して初めて、自己を観照する自分に気づくことが出来ます。つまり「識」から「意」を観照するのです。あるがままを見つめるとはそういうことだと思います。
そしてその「識」には、いくつもの断層があります。話が長くなりますのでこの辺で打ち切りますが、所謂、唯識論は単に理論的に識を幾つかの階層に分類しているのではなく、修行によってはっきりとその「境」をも認識できるものなのです。
少なくとも、私ははっきりと体験できました。
識を安定させ、内分泌の制御が可能になりますと、そこではもはや極限での苦行は妨げとなります。故に、釈迦は乳粥で体調を整え、菩提樹の下での修行に入ったのです。 つまり、苦行が必要とされる段階が終わったら、次は静寂の中での修行が始まります。肉体を痛めるような修行はもはや必要とはされないのです。 いつまでも肉体にとらわれていたら、到底ゴールには至りません。
例えば、真言密教の場合はどうでしょう。
三密加持というか、殆どの修法では身・口・意に特定の課題を与えています。しかしながら問題は「意」なのです。
阿字観や月輪観などの観法も全てそうです。つまり、特定のイメージを想定し、それをリアルに強くイメージするのです。
そのイメージで「意」を支配し尽くします。 何かに集中すると言うことは「識」を特定の意で覆い尽くそうとする作業です。数息観なども同じです。 これらの行為は、脳波に緊張を与える為に、識を安定させることに逆行し、「識」から「意」を観照することを妨げます。単に観念にとらわれているだけに過ぎません。
ランナーズハイという言葉があります。
マラソンなどの長距離走者が、極限状態である瞬間にとても爽快な独特の気分になり、それがよく禅僧の見性体験などと比較されていますが、実際にはこれは、単にβ-エンドルフィンなどの脳内物質の作用にすぎず、悟りとは別物です。米国のババラムダス(元・ハーバード大学教授)などは、LSDが悟りの擬似体験をもたらすとも言っています。
脳波の状態と悟りとは違うのに、往々にしてα波からシータ波への移行ばかりが採り沙汰され、研究対象になったりしています。悟りがその程度のものであるなら苦労はありません。そのような事もあって、私は20分云々と申し上げているのです。実の所、脳波のコントロールは修行しやすい状態を作ることに役立つだけで、それ以上の意味を持ちません。「意」を観照することを習得してから、徐々に「識」の深い階層へ旅立つ為に多少役立つだけです。仏教で謂う「四禅の境地」ですが、その先に、空無辺処定、識無辺処定、無所有処定、非想非非想定、滅想受定と続きます。これらは、大パリニッバーナ経の第三章33に詳しく出てきますが、そこでは第四禅を空無辺処定の一部(前段階)と位置付け、全部で「八つの解脱がある」と説いています。私は、唯識論との関連から、これらの各段階を自ら実験しながらひとつづつ検証しているのですが、完全な滅想受定だけはまだ体験できません。部分的な「滅」ならわかりますが、完全な「滅」はニルバーナだとしか思えないのです。大パリニッバーナ経では、第6章の八で滅想受定とニルバーナを区別していますので、悟りの世界の深さを改めて痛感しています。