本書について
本書は、著者自身の過去の修行体験と、史料・伝承を照らし合わせて考察した実修記録である。
本文に記した真冬の滝行、極端な冷却、断食、長時間瞑想、眼球・舌・呼吸を組み合わせた技法などを、読者に勧めるものではない。危険を伴うため、自己流で再現してはならない。
チャクラ、松果体、脳内の振動などの表現は、医学的に確立された作用を断定するものではなく、著者の内観上の感覚と、そこから導いた仮説である。
© 2026 小山一夫
前書き なぜ今、求聞持法について書くのか
真言密教の秘法に、「虚空蔵菩薩求聞持法」と呼ばれる修法がある。
一般には、虚空蔵菩薩の真言を一日一万遍、百日間、合計百万遍唱える修法として知られている。この法を成就すれば、聞いたことを忘れず、膨大な教えを記憶し、それを理解する力が得られると伝えられてきた。
若き日の空海も、唐へ渡る以前に、この求聞持法を修し、成就したとされている。空海は『三教指帰』の序文に、その時の体験を、
「谷響きを惜しまず、明星来影す」
と記した。また、後世に編まれた『御遺告』には、
「明星口に入り、虚空蔵光明照らし来って、菩薩の威を顕す」
と、さらに具体的に記されている。
明星が口に入り、光明が内側を照らしたとは、いったいどのような体験だったのだろうか。
私は、虚空蔵求聞持法そのものを修した経験はない。したがって、本書で求聞持法の秘密を完全に解明したと主張するつもりはない。
しかし私は若い頃、真言宗醍醐派の修験道へ入り、断食、滝行、火生三昧などの行に取り組んだ。また、醍醐寺に伝わる恵印三昧耶加行を修した。ただし、恵印灌頂については、ひとたび正式な伝授を受ければ簡単にその法流を離れることができなくなると考え、あえて受けなかった。
そのほぼ同じ時期に、私はクンダリーニ・ヨーガも学んでいた。修験道を終えてからヨーガへ移ったのではない。両方を、ほぼ並行して修していたのである。
その中で、一回二時間半のキルタン・クリヤを、六十日間を一セットとして三セット行った。正式な修行期間だけでも百八十日、時間にすれば四百五十時間になる。
その修行の中で私は、マントラの音と振動、呼吸、姿勢、横隔膜、ムドラー、眼球、舌、チャクラ、そして意識を向ける位置との関係について、多くのことを体験した。
キルタン・クリヤの無言の段階では、頭部中央と眉間の少し奥に振動を感じ、太陽の光のような、何色とも言い表しにくい内部光を何度も体験した。真冬の滝行では、仙骨付近から背中全体へ猛烈な熱が上昇し、身体から大量の湯気が立ち上る体験もした。
しかし、さまざまな修行と体験を重ねるほど、私の中には一つの疑問が大きくなっていった。
これらの力や神秘体験は、本当に悟りなのだろうか。
記憶力が高まる。集中の持続力が増す。生命力が強くなる。真言の振動を身体内部へ導けるようになる。光を見る。熱が脊柱に沿って上昇する。加持祈祷の力が現れる。
それらは確かに、通常とは異なる体験である。しかし、どれほど強烈な体験であっても、それによって自我や執着が消えるわけではない。生命力が高まっても、人間の苦悩がなくなるとは限らない。
私は、密教とヨーガの双方を命懸けで修したからこそ、技法の力だけでなく、その限界も知ることになった。
この本を書こうと思った理由は、求聞持法の秘伝を公開するためではない。読者に危険な修行を勧めるためでもない。私自身の修行経験を手がかりとして、空海の求聞持法に、どのような身体技法と意識操作があった可能性があるのかを考えたかったのである。
本書では、三つの視点から考えてゆく。
探源――源を知ること。
探原――原理を探ること。
探限――限界を知ること。
空海、役行者、聖宝の関係については、史料で確認できる事実と、後世の伝承、そして私自身の実修経験から導いた推察を、できる限り区別して述べる。また、チャクラ、松果体、脳内の振動などについても、医学的に確立された事実としてではなく、私自身の内観上の感覚と、そこから導いた仮説として記す。
空海にとって、室戸岬での明星体験はゴールではなかったのではないだろうか。もし、それが仏道の最終的な悟りであったなら、その後、命を懸けて唐へ渡り、師を求める必要はなかったはずである。
求聞持法は、空海の天才的能力を開いたかもしれない。しかし、空海を空海たらしめたものは、その体験に留まらず、さらに源と原理を尋ね、その限界を超えて、正統な教えと師を求め続けたことにある。
本書が、求聞持法や密教、ヨーガの神秘性を煽るものではなく、技法の本当の価値と限界を考えるための一冊となれば幸いである。