木を見ると云ふ事でもふ一つ。
嫁を娶るなら、親を見よと云ひます、
親といふ字は 立ち木を見る と書きます。
親は大きな木です。子供は若木です。実の芽です。まだ芽の頃は、杉の木、松の木の芽も格構が見分け付かぬ程よく似て居ます。草達もそうで、チラリと出した芽だけでは、区別出来ません。側に杉の木があれば、これは杉の子、きっと親杉の様に真直ぐのびるだろふと判ります。
親を見れば 子供の躾が判るんです。
躾は習慣となります、習慣は第二の天性です。
但し植物、杉の子は杉、松の子は松ですが
金持の子は金持、役者の子は役者と、きまってはいません。然し、其の子供達の将来を左右するものは、躾なのですから、貧乏人の子で貧しく育てられて 折角大金持になる性命を持って居ても、その躾に左右されてその才能を充分発揮出来なくなる場合も多いのです。こんな時はその第二の天性になっている習慣 思考を根本から叩き破ってやらねばなりません。
役者の子だから、必ず名優の素質があるとはきまっていません。或は画家としての天分性命があったとしても、役者と云ふ家の習慣 親の躾に依って、役者として立派になるかも知れませんが、その人本来の画家としての性命が押し圧せられてしふ為に、その欲求不満が、生活上どんな形で現はれませふか。
これを見抜けなくては"相者"ではあひません。
