事が妙な題である。
乞食の事を喋りたくなっては、自分に乞食の因子でもあるか、興のむくまま書く。
時代が変り、人間全体の生活がこんなにダラシ無くなると、乞食の奴までだらしなくなって、本当の乞食が居なくなって居るのも淋しい。
「乞食は火食せず」が乞食の本来で 乞食の尊さ?なのである。火食せずとは、煮炊きして食はぬ事であって、生まで喰ふこと、もふ少し程度を張って、与へられたものでも煮炊せねばならぬものは受けないこと。
貯蔵のないこと、一食でも残しては乞食道にはづれる。
これが乞食道の尊さである。
今の乞食は火を使ふ。人の家の軒下で火を焚く そして、寺の山門を焼いたり 五重塔まで炎上させて、中に居た罪ない男女を心中者に、までして終ったのがある。危険分子である。油断がならぬ。彼等は乞食ではない。貧乏人なのである。金殿玉楼に住んで火食する貧乏人の如何に多いことよ。
若し火食しない乞食であったら、一種の風格もある乞食であろふ。王公と対等に膝を交えて語るに足るものである、極言すれば乞聖とも云へるであろふ。
徳川末期に一人居た、私の知る限りでは、乞食桃水と云ふ坊主である。九州島津藩の藩公の菩提寺の住職になった其の日に ドロン‼︎ 大阪に来て乞食して居た。
弟子達が ようやく三年目で巡り会へて、泣きすがるのに又ドロン。此の頃有名になって大阪の大商人の処に招待された。ご馳走になって さて帰ろふとすると、商人、どうぞ 御法話を、ウン、夏は醤油を作り、冬は味噌を作るもんぢゃ の一言、同じ豆、コウジ、塩でも夏と冬では作る物の形も変る、世の中の「時」に合はせよ。世の中の時勢に逆ふな と云ふ教へである。夏は醤油、冬は味噌、一言にして、妙諦である。
