終戰の時、シンガポールのジヨロンと云ふ地区の在留邦人抑留所で、私はじっと自分を見つめ乍ら、世界の変化、歴史の推移を深く考へる一時がありました。本も何もないキヤンプ生活は私の頭の中の整理期にも当たりました。此の時、こんな短歌を作ってありました。
「大祖ゆ、父母受け継ぎて我にあり 神 照覧す邦の 言霊と血と」
俺の躯には神代からの幾千年と経た生命の血がながれて續いて来てゐると共に、日本人としての言霊をも受け續いでゐるのだぞ!!の意気でした。
正雄さんは開墾もせずに、サロン一枚で、毎日ナマヅ釣りばかりしてゐると、兄や義姉や家の社員達に憎くまれ罵られ乍ら、私は考へねばならぬ事ばかりでした。
隨分廻り路をした説明でしたが「性命」と云ふものは斯ふ云ふものなんです、
その性命が活動することは、今まで幾回も此の世を経て来た私自身の性命力が活動することなんです、それは、理財力の長じた性命力もありませう。音楽的な性命もありませう、造形美術の性命を支那のトンコウの時代から持ち續けた性命もありませう。又戦乱の世に戰ふことに燻習された性命の持主も現在ゐませうし、又、宗教的生活を燻習した性命の持主が現世では宗教家でなく、易者をしてゐるかも知れません。
犯罪に燻習された種子を抱いてゐる人もありますし、自分の性命が此の時代に合致しない人もありませう。兎に角、現在の私の生命も性命も、貴方の生命も性命も、生れて、役場に届け出た時からの短いものではありません。
