小唄はもっと明るい。
ある料亭の女將が唄った。「女將は、切ない、苦しい恋としたことが無いね」
じっと俺の顔をみつめてから。「そうかも知れません」とポツンと返事をした。その唄日ぶりが明るいのだ。もふ少し暗く、その一節の唄ひまはしの中に恨みの情が入らなくては、その小唄は殆ど五十文字くらい。長唄は長い。その唄全体のカン所があり、他は「起」であり「結」なのだ。清元はもう少し色っぽい。横坐りになった女の恨み言葉かな。
小唄はコタツに這入って、「雪の降る夜の靜けさを」の味ひで、一句一節に感情がこもって居なくてはならぬ、思ひ切り感情をこめて、唄ってこそ良いのだし、新内は叫けばうとする気持を押え押えそして細々と現はすものか、それは、小唄と共に、恋に苦しみ、義理のつらさに泣いてこそ、そして、世の中の裏表が判って、そして又、その苦しみに泣き乍ら、も世の中は、「これでよいの」になって、初めて、味が出るのではないか。
だから、若い芸妓の小唄は明るくて駄目だ。どうしても四十才を過ぎないと、で、小唄は中老の人にもてる。
長唄は、十二三の小娘でも唄えるもの。
「どどいつあ、やぼでも、やりくりや上手」の都々逸は腹掛け半纏で味がある。囲碁は床の柱の光って居る書院座敷だし、將棋は緣台や緣側で口で將棋か手で將棋か判らなくなってこそ、憎い、可愛いい仇が出来ると云ふものである、
小唄を聞くと、實に良い気持だね、良い調子の三味できくと、”アア生きてゐてよかった」とさえ思ふ
