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「俺はこう思う」禪「私の考へ方」-11

著者:若月佑孔 / 元ブログ投稿日:2025-04-04

 

恋で苦しんだら来い、仕事で行きづまったら来い。良い事をしたかったら来い、泥棒をしたかったら来い。


来て、一人ヂャンと坐ればよいのだ、そして、その苦しみよろこび、何でもよい、飴玉をしやぶるやうに大切に考へよ、臨済禪は「公案」だか、そんな他人の言葉より、今、自分の持って居る問題の方が、自分の自分らしい「公案」ではないか、朝日が出て、西に落ちるまで考へよ、ほんとに飴玉のやうに、親切に、ていねいに、靜かに味ふんだ。そしたら判る、


人間の頭なんて分裂症なんだ。一つの事が、何分つづけて考へられるか、


夢ネ、あの眠ってゐるとき見る夢、ずい分長い夢のやうでも、せいぜい三秒程の脳ミソの活動なんだそうな。眼を開いてゐるときもそうなのだ。


例へば、手にとった煙草を注視して考えよ。さあ、これは何だ、タバコだ、タバコと稱するものだそればかり考えて居られるか?すぐタバコ屋の姿が考へに浮ぶ、前が風呂屋だ、女湯からユデタマゴみたいな女が出て来た、アツ、山の中で女が尻を捲って小便してたっけとそらどんどん思索が変るだろ、同じことを三十秒と、續けて考へられないんだ。この考へることを止めるんだ。それは、考へることは考へまかせ、勝手にしろと、坐るだけはジャンと坐って、頭の中がクルクルいろいろ考へても放っとく、そして、又、タバコタバコと考へなほす、これを連續してゐる中に、ポツンと何の思索もない一瞬をつかむ、自己が空白になったとき、そして、自分が現はれてゐるのだ、


慣れると、三時間も五分か十分に感ずる様になる、何も考へずにチンと坐ったことになる、その時の身心の爽快は。坐り慣れなくては出来ない、そして、四周にも、思索にもとらはれて居ない、臨機応変の出来る自分が自然と出来上がってゐるのである、
 

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