何か大きな苦しみ、困難にぶつかる。どうして良いか判らぬ、三日も四日も方策が判らない。苦しむ苦しむ、
そして、便所で小便をし乍ら、飯をたべ乍ら、
「ア、そうだ、こうしやう」と考へ付くことががある、それが「自性の聲」だ。
坐禪を組んで、十日廿日となると、自分の口から、出る妙な言葉、それは俺に俺か語る言葉なのだ。これが本当の自悟、自覚なのだ。その様に、「あ、そうだ!!」が其の時の、其の立場としての本当の自分の方策なのだ。
俺は、このことを、「キンタマ線香」と云う、坐る、キンタマの処に線香をたてたとせよ。その煙がスーッと体内を通って、脳天に抜ける様に、澄み切った靜かなとき、自分の今、行くべき左、右、白黒を自分で知るのだ、それを知ったら、すぐ実行なのだ。それが出来ないで、常に人の言葉をきき、人の行為ばかり気にしてキヨロキヨロするから、キンタマ線香の煙がフラフラフラ雲散霧消させて終ってゐる。
稀にその自性の声をきく、その尊い声を聞き乍ら、尚ほ迷って人に訊ねて廻る。相談に行く、相手の鼻息をうかがう、これでは到底だめだ。
自分が食事、小便、など、「無心」になって居るとき、自分の声が自分にささやいて居るのを知らないで、キヨロキヨロ他の方をばかり見通して驚ろいてばかり居る。そして、学問だ、知識だ、
そして、本当に自分を知る手段の禪を非科学的だと云ふかと思うと、少しなま意気のインテリは、こんな「やさしい」禪を七面倒臭く考え、講釋してゐる。
