此の無就着が禪の要諦なのだ。離れると言うことが其の表現だ。
頭の中に、走馬灯の様にグルグルと、いろんなことが考へ浮んで来る、それをやめて、無念夢想になろふたつて到底だめだ、勝手に考へさせとけ、脳が勝手に運動するだけだ。其の中に脳の奴も考へるのに飽きるのか、躯を整えてゐる為に落付くのか、いつのまにか草木のやうに無心になって居るのだ、考へると云ふ風もやんで波も靜まった池の面のやうな靜けさ、これが悟りの心境だろ、悟りとは、丸いものが三角に見えるのではないのだ。無心に外界に接しられるのが悟りだ。じゃ、何故、「無心」で居られないのか。
坐禪で初めて、「無心」になるのか、冗談じゃない。赤ちゃんは無心で居るではないか。赤ちゃんは何故無心でゐられるのか、慾がないからさ、「慾心」があると執着する心が出来る、此の執着が外の状況にひきずられることから出来るのだ、
無心でゐるときは、躯も無心の様に靜かでゐる、心の中に波風がないのと同じ、それが執着の心を起すと、その状況にとらはれて、いろいろのことを考へ初め、考へることに依って、尚ほ心に波風を起して終ふ。何故そうなるか、それは慾望から、貧瞋痴の念が起きてくるからである、
そうかと云って、俺は慾のない、木石、寒岩枯木のやうになれと云ふのでない。「慾ったかり」でもよい。只、「自分の思ひ」に執着するなと云うことである、
このことは、前に云った様に、耳には聞いても心にきかせぬ、心にきいても心を驚ろかせない。無執着で、俺は此処で「坐り死ぬ」程の決心なら、心も慾得の心配で動かされないですむではないか。
