見るのは目、目では見ても、心は動かされぬ、
頭の中ではお互ひにみんな愚痴なんだから、いろいろの考へがグルグル動く、動かさせておくさ、そして、心だけは確と靜めて、動かさない。「不動心」と云ふ。この「不動心」「心を動かさず」が坐禪の姿勢である。
無心になり切ることだ、俺が俺を殺す所なんだ。『これを、安楽の法門」と謂ふのである。
此の坐禪の「安楽の法門」は、あらゆるところに活用される、
大工がカナヅチを握った時にもある、本を讀むときにもある、算盤のときにもある、自分の仕事に没頭した時にある、自分の自分らしい生活を行ってゐる時にある、
その生活に没却すれば、禪の境地なので、絵筆の中にも、三味線の中にもある、ジャンジャンと、無心になって三味線をひけばよいのだ、夢中で、無我夢中でやり抜くとき、其処に見出される本当に尊い自己は、釋迦なのだ、如来様だ、佛様だ、そして臭い躯の自分なのである、
繪筆が俺が筆か、三味線が私か、私が三味線か判らなくならなければ、その境地と、その境地に達した自分の尊さが判らない。
中途ハンパの奴、インテリで理屈をコネて居る奴、無邪気に實行出来ぬ奴は、いつまでも、自分の尊さを味へない。
