「エジプト」と云う映画があった。奴隷が王様の墓を作くる映画であった。その映画を見て考へたことであるが、この男奴隷女奴隷達は、どうせ戰爭して敗れた国の国民がそうさせられて居るのであろが、分離して生活させられて居ただろうか。若し彼等が分離して「飼はれてゐる」ものならばその王国は直ちに破滅して終うだろう。奴隷の反抗と、奴隷の數的な増加が行はれないからである。奴隷は王国にとって、財産なのである、生産の為の勞働源なのであるから、丁度、我々が馬や牛、雛を飼育して、その増殖をはかるやうに、奴隷は働くことと共に、増殖の仕事もあった筈である。性殖の自由と盛大が王国と奴隷の共存條件となってゐたのである。
此の奌で奴隷と雖も「生きる、生き續ける」自由は奪はれてゐない。
それだのに、文明の世に於ては奴隷の存在はないが、「生きる自由」は奪はれてゐる。結婚が容易に行はれなくなってゐるのだ。そして、その不満の現はれは「よろめき」なる新語によって許容されてゐるのである。
この事を内容とした文学と稱する小説の流行は後を絶たないだろうし、破廉恥的な言葉がもっともっと芸術的な表現をされやうになるだろうし。芸術もその為にこそ「必要」になって来ることになりはしないか。生きる、自己保存の本能を押へ付けられた「文明人」達は、奴隷以上の束縛を與えられ、そして、自分達が作り出した「文明人」らしい宗教や道徳やの重荷を背負って、うめき乍ら、よろめいて行かねばなるまい。人間を押え付けてはいけない。人間を悲しませてはいけない。過去幾千年前からの宗教も道徳も、この奴隷さへ持って居た「自由を奪った代償」として、ごまかす為に與えられて来たのではないか。
人間はもっと本然の形に還えらなくてはならない。この「ヨロメキ」と云う言葉から、分析して考へてみると、いろいろの人間苦が自由を唱える言葉から、慈悲をのべる言葉の裏から、道徳と云う美くしい飾りものの下に人間と云うものが何と哀れなものになって居たかを知るではないか。(但し、私はよろめきを是認して居るのではない)
