古新聞で讀んだのだけれど、そして誰の隨筆であったか忘れたけれど、或る日来訪の人があって、お土産にお茶を頂いた。訪問客の云うには、此のお茶は、隨分苦勞したものです、古るいお茶の木を探して歩るきました、そして、その木は肥料をやらない木である條件でした、漸く古るい家敷跡の茅原の中に残されて居る茶の木を見付けて、そして新芽の出るのを待って作ったものですと云うのである。成る程きっとおいしい、自然の本当のお茶の味であろふと、その探した人を羨ましく思ったことがある。
茶の美味、不味は畠の土と、肥料の関係しますと、お茶屋の主人は云う、確かにその通りであろうし、茶の産地では美味に、量産にと、いろいろの肥料を施して居るであろうし、又、芽の出る頃は木に紙をかけたり、ビニールをかぶせたりして促成して居るとか、お茶も人工的に造られるやうになって、そして、味も、人工的、茶本来の味が失はれて終ってゐるのではないか。
柿もみかんも、自然の味覚と云はれてゐるけれども、本当にそうであろうか、現在私達の味ふ柿、みかん、瓜、西瓜みんな人工的に畠に作られ、肥料を撰び温度を加減して作くられてある。自然の味とは云ひ乍ら、本当は人工の味ではないか、只、それがお菓子、羊羹、カステラ、ケーキの様に作為的な工程、意識的な味付けが行はれたかどうかの差でしかない。
