まだ、私達の幼い頃、他所からの到来の祝儀不祝儀の料理に薄く切ったミカンが乗って居た、その頃は今の様に季節になると北海道の果までもミカンが充分喰べられるのとは違って、お正月になって、箱でミカンを買ふのはぜいたくな家の部類であった頃だから、その輪切りのみかんが貴重品であった、あの頃の酸っぱい、プルプルとするやうな時、原始的な味は忘れられた様に思う、人工のみかんの味になってゐるやうに思はれる。
小粒で固い柿も珍らしい、種子が大きくて、如何にもカタクナな強情張りの漢字の山の柿も、今では見られない、山の中に這入って、茸を探しながら口に含むハチマキ太郎の實や、山グミ、イワナシの味は自然の味の太古のままだし、山家で割ってたべるクルミの甘さ、山ブドーの徹底的な「スッパサ」が判らなくては、山の木達の言葉も風のささやきも判らなくなるのではないか、現代人都会の生活が標準になっては、「作られた自然の味」以外に味はへなくなってゐる、時季の感覚のない温室製の果物や花、貴重品の様に扱かはれる果物達から、自然のささやきが聞かれるだろうか、心のふるさとの言葉きかれるだろうか。
お茶もそうなのであって、人工、人工と工夫を重ねた「勞働者の様になった木」それはもう、自然の木ではなくなってゐる。
